縄文・弥生期の日本は、世界でも有数の刺青文化を有していたと考えられているが、集権国家が形成されはじめた古墳時代になると、人物を模った埴輪の表面は文様を持たない簡素なものとなるため、これをして刺青の風習が廃れたと主張する意見がある。
また、古代の畿内地方には刺青の習俗が存在せず、刺青の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。 これは、古事記 の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された刺青)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述を論拠とするものである。
これに対して、顔に刺青と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土している例や、出土地域によるデザインの違いから類型化もなされている事実などが、反証として挙げられている。
一方では、集権化の進行とともに社会構成が変化し、大部分の人口が権力者に所有される存在となった事で、個人の社会的身分を示す刺青が不要となり、刺青が権力者や呪術者、特殊な職能を持つ者(馬飼・鳥飼など動物の飼育を担当する者達)など一部の人々の特権的なサインとなり、これを反映して刺青を施された埴輪が少数となった、との考察も存在する。
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